
当店の専属パンチデザイナーのご紹介です。
名前:cojicoji
出身地:大分県
特徴:歴史、思想、政治、文学、絵画、音楽に造詣が深い。
略歴:
昭和29年、大分県大分市に元軍人の大工、一(はじめ)と元看護婦のアキ子の間に、兄、姉、弟の3人兄弟の末っ子として生まれる。
結婚に際し、勘当同然で家を出た母アキ子に親族は冷たく、極貧に喘ぐ日々であった。幼少の頃より、兄とともに母親の在所に金借りの使いに出される。
祖父母、6つ上の兄である慎(まこと)に寵愛を受けて育った。
祖父母には、鰯を口の中で噛み砕いてこねて団子状にしたものをオヤツとして与えられていた。
慎には、早くも10歳にドストエフスキーの「貧しき人びと」を無理やり読ませられる等の英才教育を受けた。
1967年6月25日早朝、史上初の衛星生中継番組、「アワ・ワールド(Our World)」に英国代表として出演したビートルズの「愛こそはすべて」に感銘を受ける。
今にある「ウェブ」という概念はここからはじまったと確信する。当時中学1年生。
それからビートルズ、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンなどのロックミュージックにのめりこむことになる。
高校卒業後、博多へ。教科書販売の営業で福岡県内を駆け回る日々。
ある日映画館で見た「東京流れ者」に触発され、上京を決意。一路東京へ。
上京後、新宿で無頼の日々を送る。酒、煙草、ジャズ、中上健次、三島由紀夫、セリーヌ、ゴダール、友部正人等に心酔する。
1979年4月6日、新宿厚生年金ホールにライブで来ていたボブ・マーリーに会おうと、裏口から潜入しようとすると、偶然にも遭遇する。
ボブと固いハグを交わす。マリファナの香りがした。
チャック・ベリーのライブにも足を運ぶ。最前列でもみくちゃになっているところを、チャック・ベリーから心配そうな目で見つめられる。
ゴールデン街で飲み歩いていたある日、仲良くなった編集者から中上健次を呼び出してもらうが、どうしても今日は来ることができないとのこと。
「こんなことは中上と知り合ってから始めてだ。」と編集者。
1980年12月8日、ジョン・レノン射殺。
1981年5月11日、ボブ・マーリー死去。
浅草界隈を仕事を探してふらふらしているときに、刺繍職人の店を見つける。当時では珍しく、コンピューターミシンを使った刺繍加工を行っていた。
興味をもって弟子入りを願い出る。
1984年、父一、死去。
修行の日々を終え、結婚・独立する。刺繍の本場、群馬県桐生市に事務所「ファクトリーA」を設立。
手塚治虫監修のもと、西武ライオンズの球団マークのパンチデータを作成。
現場での意見もとに、自ら使用するパンチデータソフトWILCOMへ様々なアドバイスを行う。
ある日、アメリカの某企業より、日本の某企業へ大量ロットの刺繍加工の依頼がきた。
当初、中国の工場へ製作を依頼する予定であったが、中国の現地工場にあるミシンは工場によって異なるものが設備されており、
同じパンチデータを使って刺繍をしても、使用するミシンによって全く仕上がりが異なってしまうことが判明。
日本の某企業は大量ロットの生産依頼を抱えたまま倒産寸前だった折、相談が舞い込む。
そこで、中国の工場で使用しているミシンのサンプルデータをそれぞれ送ってもらい、各々のパンチデータを作成。
気の遠くなる作業だったが、何とか完成し、無事生産へとこぎつく。
いまでは洋服にmade in chinaと書かれたタグがつくことは珍しくないが、当時はこれが初めてだった。
1992年8月12日、中上健次死去。
それから半年後の1993年2月12日、慎が死去。母親と妻、小学生と幼稚園の3人の子供を残しての死だった。
その後も様々な分野で活躍していたある日、株式会社ユニクロにヘッドハンティング。再び東京へ戻る。
刺繍加工部にて多大な貢献を果たし、退社。
2006年、母アキ子、死去。
2009年8月、故慎の息子(甥)と、Hachiman/avocadoを立ち上げる。webソリューション部門として「ハボチの刺繍職人」を開設。
2人で連れ立ってゴールデン街に行く際には、新宿東口さくらや前で待ち合わせることが通例。
本人いわく、「Live in Tokyo」のジャケットのジョン・ライドンを意識しているとか、いないとか・・・。
・・・続く?


